朝、いちばんに来て窓を開ける人。帰りに、最後まで残って窓を締める人。乱れた掃除道具を、誰も見ていないところで整頓し直す人。休んだ友達の机を、移動教室のときにそっと運んでおく人。
教室は、こうした「名前の出ない優しさ」によって、静かに支えられています。けれど、その優しさに気づく人は、どれだけいるでしょうか。今回は、電車で席を譲る場面を入り口に、子どもたちが「称賛されない優しさ」に気づいていった道徳授業の実践記録をお届けします。
導入──「ヒーローといえば、どんな人?」
授業の最初の問いは、シンプルなものです。「ヒーローといえば、どんな人を思い浮かべる?」
子どもたちからは、プロのアスリート、アニメの主人公、世界を変えた有名人の名前が次々と挙がります。「みんなに知られている」「すごい力がある」「大勢の前で活躍する」。ヒーローのイメージは、自然と「目立つ人」「称賛される人」に集まっていきました。この時点では、それが当たり前のように思えます。
展開──席を譲ろうとして、断られたら?
ここで、一つの場面を提示しました。
電車の中。Aさんの目の前に、妊婦さんが立っています。Aさんは「どうぞ」と席を譲りました。ところが、その妊婦さんは「いえ、大丈夫です」と、譲られた席を断ってしまったのです。
気まずい空気が流れます。Aさんも、なんだか申し訳ない気持ちになりました。よかれと思ってしたことが、うまくいかなかった——。子どもたちに問いかけます。「もし、タイムリープしてこの場面をやり直せるとしたら、あなたなら、どうやって席を譲る?」
一度「失敗」を見せてから、「やり直すなら?」と問う。この問い方をすると、子どもたちは一気に本気になります。ただ「席を譲るのは親切です」と教わるのとは違い、「どうすればうまくいくか」を自分ごととして真剣に考え始めるのです。
発展──「気づかせない」譲り方へ
個人で考えたあと、全体で意見を交流しました。すると、子どもたちからは実にさまざまなアイデアが出てきます。
「『次の駅で降りるので』と言って席を立つ」「妊婦さんに直接じゃなく、近くの人にそっと声をかけてもらう」。そして、こんな意見も出ました。「黙って席を立って、自然に電車を降りてしまう」「席を立って、別の車両に移動する」。
意見を交流するなかで、子どもたちの考えは、ある方向に収束していきました。それは、「譲ってあげた」と相手に感じさせない譲り方です。「どうぞ」とはっきり言えば、相手は「申し訳ない」と気をつかってしまう。だったら、相手に気をつかわせないように、さりげなく席を空ける。そのほうが、本当の意味でやさしいのではないか——。子どもたち自身が、そこにたどり着いたのです。
結末──それは「アンサングヒーロー」だ
子どもたちの考えが深まったところで、「アンサングヒーロー」という言葉を紹介しました。「sung(歌われる・称賛される)」に否定の「un」がついた、「称賛されない英雄」という意味です。
誰にも気づかれず、感謝されることもなく、それでも相手のために動く。さっき子どもたちがたどり着いた「気づかせない譲り方」は、まさにアンサングヒーローの優しさそのものでした。
そして、こう伝えました。「実は、このアンサングヒーローは、遠くの誰かじゃない。この教室にも、けっこういるんだよ」。冒頭に挙げたような、窓を開ける人、掃除道具を整える人、休んだ子の机を運ぶ人。その姿を具体的に伝えると、子どもたちは少し驚いた表情を見せました。自分たちのすぐそばに、称賛されない優しさがあったことに気づいたのです。
最後に、問いかけました。「あなたなら、できる? 誰にも気づかれなくても、当たり前にやれる人に、なれそうかな?」
子どもたちの振り返りから
授業後の振り返りには、心に残るものがいくつもありました。特定の個人が分からない形で、趣旨を紹介します。
ある生徒は、「今まで自分は、ありがとうと言われたくて親切にしていたかもしれない。これからは、気づかれなくてもできる人になりたい」という趣旨のことを書いていました。また別の生徒は、「やさしさにも種類があると初めて知った。相手に気をつかわせないやさしさが、いちばん難しくて、いちばんすごいと思った」と振り返っていました。
「親切=いいこと」という単純な理解から、「相手の立場に立った優しさとは何か」へ。子どもたちの考えが一段深まったことが、振り返りの言葉から伝わってきました。
授業を支える3つの実践ポイント
この授業で大切にしたポイントが、三つあります。
一つ目は、答えを先に渡さないこと。「相手に気をつかわせない優しさが大切です」と最初に教えてしまえば、子どもの思考は止まります。あえて「席を譲って断られる」という失敗から入り、「どうすればよかった?」と子どもたちに委ねることで、思考が動き出します。
二つ目は、「自分ごと」に着地させること。場面を他人事の物語で終わらせず、「あなたならどうする?」「あなたならできる?」と問いの距離を縮めていく。そうすることで、道徳が綺麗ごとではなく、自分の問題になります。
三つ目は、45分で終わらせず、授業後の日常を拾い上げること。授業後に見つかった小さなアンサングヒーローの姿を、帰りの会で価値づけたり、学級通信で紹介したりする。日常に授業の続きを組み込むことが、この教材の価値をいちばん引き出します。
おわりに
「どうぞ」と声に出して譲ることだけが、優しさではない。相手に気をつかわせないために、あえて黙って席を立つ。その選択肢に子どもたち自身が気づいたとき、優しさの解像度が一段上がったように感じました。
目の前の教室にも、きっと名前の出ないヒーローが隠れています。スポットライトの当たらない優しさを、そっと照らす時間。よければ、一度試してみてはいかがでしょうか。
