「忘れ去られる側の教員でいい」──承認されない仕事の価値

学期末のある日、一本の連絡が入った。生徒同士のトラブル。ただし、起きたのは放課後、学校の外、それぞれの家庭のスマートフォンの中でのことだった。

翌日、対応に追われながら、ふと思った。なぜ、これは学校に来るのだろう。家庭で起きて、家庭の端末で交わされたやりとりの後始末が、なぜ当然のように担任の仕事になるのだろう。もちろん、対応はする。子どもに関わることなら、線引きをして突き放すつもりはない。それでも、心のどこかで小さくつぶやく自分がいた。恩は恩で返ってこないのに、仇は仇でしっかり返ってくるんだな、と。

今回は、この「報われなさ」の話を書こうと思う。そして、その先にある、静かな覚悟の話を。

目次

報われなさの正体

教員の仕事には、感謝の返ってこない仕事が山ほどある。家庭の問題の尻拭い、誰も見ていない場所でのトラブル対応、日々の細かな指導。うまくいって当たり前、うまくいかなければ責められる。成果は見えず、失点だけが数えられる。

この構造の中で働き続けていると、ふとした瞬間に、徒労感が足元から上がってくる。自分は何のためにこれをやっているのか。誰かこれを見ているのか。——おそらく、誰も見ていない。それが答えだと、心のどこかでわかっている。

称賛される担任と、埋もれる担任

この仕事には、わかりやすく報われるポジションがある。小6と中3の担任だ。

卒業式という明確なゴールがあり、そこで子どもたちは泣き、保護者は頭を下げ、「先生が担任でよかった」という言葉が飛び交う。教員人生のハイライトと言っていい。私自身、その場面の尊さを疑うつもりはない。

でも、と思う。その子たちの土台を作ったのは、誰だったのか。

荒れていた学年を立て直した中1の担任。反抗期の嵐と正面からぶつかり続けた中2の担任。生徒指導の矢面に立ち、保護者対応で消耗し、それでも学級を崩さずに次へつないだ教員たち。卒業式の日、その名前が語られることは、ほとんどない。子どもたちの記憶の中でも、やがて薄れていく。

ゴールを決めた者だけが称賛される。アシストは、リプレイにすら映らない。この構造への違和感を、私は長いこと言葉にできずにいた。

それでも、指導し続ける理由

想像してほしい。道路の脇に、警察官が立っている。目の前を、一台の車が速度違反で走り抜ける。警察官は見逃す。翌日も、その次の日も、同じ車が違反をして、警察官は見逃し続ける。

それを、周囲の住民が見ている。「あの道は捕まらない」。そう知られた道路がどうなるかは、言うまでもない。一台の見逃しは、一台の問題では終わらない。道路全体の治安が、静かに崩壊していく。

だから警察官は取り締まる。感謝されるためではない。むしろ、取り締まれば恨まれる。それでも取り締まるのは、それが道路の機能を守る唯一の方法だからだ。

教室で特定の生徒を注意し続けることも、これと同じだと私は思っている。何度も同じ子を注意する。本人には疎まれ、ときに保護者からは「なぜうちの子ばかり」と問われる。承認どころか、反感が返ってくる仕事だ。

それでも注意をやめないのは、その子を排除したいからではない。逆だ。その子を学級から浮かせないためだ。教師が注意をやめた瞬間、周りの生徒たちは「あの子は見放された」と理解する。誰にも注意されなくなった子は、自由になるのではない。学級の輪の外に、静かに置き去りにされる。不器用なやり方かもしれない。でも、注意し続けることは、「あなたはまだこの学級の一員だ」と言い続けることでもある。

誰にも称賛されなくても、機能のために立ち続ける。それが、この仕事の本質的な一部なのだと思う。

バトンを渡す側でいい

最近、ようやく思えるようになったことがある。忘れ去られる側の教員でいい、ということだ。

歴史に名前が残るのは、ゴールを決めた者だ。それでいい。私は途中の区間を走る。荒れた学級を受け取り、少しだけ整えて、次の学年に渡す。卒業式で泣かれることはなくても、あの一年がなければ今のこの子たちはいなかったと、自分だけが知っていればいい。

承認から自由になることは、諦めではない。覚悟だ。むしろ、外からの評価に依存しない教員こそ、本当に子どものために動けるのではないかと思う。称賛が目的になれば、称賛される指導を選ぶようになる。誰も見ていなくても正しいことをやり続けるには、見られていることを前提にしない強さがいる。

恩は返ってこないかもしれない。名前は残らないかもしれない。それでも、淡々と、今日も教室に立つ。バトンは確かに、次へ渡っている。それを知っているのは自分だけでいい——そう思えたとき、あの徒労感は、少しだけ形を変えた。

同じように、誰にも見えない区間を走っている先生へ。あなたの仕事は、ちゃんと機能している。称賛の音がしないのは、うまく回っている証拠でもある。忘れ去られる側で、いきましょう。それは負けではなく、選んだ走り方なのだから。

けーわい先生
小学校教員
1987年生(メッシ世代)
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