文化人類学者は、見知らぬ土地に住み込んで、その土地の人々と一緒に生活しながら記録をとります。参与観察と呼ばれる方法です。
彼らが徹底するのは、自分たちの常識で相手を裁かないことです。奇妙に見える儀礼にも、その社会の中では合理的な理由がある。まずそう考えて、内側の論理を理解しようとする。文化相対主義と呼ばれる態度です。
このまなざしは、教室にそのまま持ち込めます。今回はその話をしたいと思います。
学校は、かなり特殊な文化圏である
まず、認めるところから始めたい。学校というのは、外から見るとかなり奇妙な文化です。
決まった音が鳴ると全員が同じ動きをする。同じ年に生まれた者だけが集められ、同じ服を着る。列を作って移動し、廊下では走ってはいけない。給食は全員が同じものを同じ時刻に食べる。
これらに違和感を覚えないのは、私たちがこの文化の内側で育ち、内側で働いているからです。文化人類学者がこの光景を見たら、間違いなくフィールドノートを埋めるでしょう。
大事なのは、「だから学校はおかしい」と言いたいのではないということです。どの慣習にも、成立した理由がある。ただ、その理由を説明できないまま続けている慣習が、驚くほど多い。それに気づくために、一度外からの目が必要なのです。
「なぜそうしているのか」を説明できるか
文化人類学の問いを、自分の教室に向けてみます。この習慣は、何のためにあるのか。
整列させるのはなぜか。安全のためなのか、統制のためなのか、それとも「昔からそうだから」なのか。廊下を走ってはいけないのはなぜか。危険だからだとして、では休み時間の校庭との違いを子どもに説明できるか。
説明できる慣習は、残せばいい。説明できない慣習は、少なくとも「説明できない」という事実を自覚しておきたい。以前、保護者を暑い廊下で待たせる慣習について書きましたが、あれも典型でした。誰も悪意で始めたわけではなく、ただ誰も疑わなかっただけです。
学校が変わりにくいのは、抵抗勢力がいるからというより、疑う言葉を持っていないからなのかもしれません。
子どもを「別の文化を生きる人」として見る
このまなざしがいちばん効くのは、実は子どもを見るときです。
理解できない行動をとる子がいます。なぜそこで怒るのか、なぜそれを面白がるのか、なぜその友達関係にこだわるのか。大人の常識では説明がつかない。
ここで「おかしい」と裁いてしまえば、そこで観察は終わります。でも文化人類学者なら、こう考えるはずです。その行動には、その子の世界の中では合理的な理由があるのではないかと。
実際、内側の論理が見えてくると、行動の意味が変わります。ふざけているように見えた行動が、失敗を隠すための防衛だった。反抗に見えた態度が、注目を確かめる試みだった。以前書いたカジュアル場面とフォーマル場面のギャップ観察も、要はこの発想です。子どもの行動を、その場の文化の中で読む。
ただし、教師は完全な部外者にはなれない
ここで、正直な限界も書いておきます。
文化人類学者はいずれフィールドを去りますが、教師は去りません。私たちはその文化の観察者であると同時に、その文化を維持し、再生産している当事者です。整列させているのは自分であり、チャイムで動かしているのも自分です。
完全に外に立つことはできない。だからこそ、意識的に「もし外から来た人がこれを見たら」と問う時間が要ります。この問いを持ち続けられるかどうかが、慣習の惰性に飲まれるかどうかの分かれ目になります。
社会科教員として思うこと
社会科の授業でも、この視点は使えます。異文化を「変わった風習」として消費させるのではなく、「自分たちの当たり前も、外から見れば同じように見える」と気づかせる。
そこまでいくと、異文化理解は他人事ではなくなります。相対化の刃は、必ず自分にも向く。それを引き受けられたとき、子どもは初めて「自分で考える」入口に立つのだと思います。
おわりに
文化人類学のまなざしは、特別な知識を必要としません。必要なのは一つの問いだけです。「これは、なぜこうなっているのか」。
教室の当たり前を、一度だけ外から眺めてみる。理由を説明できるものは自信を持って続け、できないものは静かに疑ってみる。その小さな習慣が、変わりにくい場所を少しずつ動かしていくのだと思います。
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