朝井リョウさんの『イン・ザ・メガチャーチ』を読みました。2026年の本屋大賞を受賞した話題作です。
推し活とファンダム経済を軸に、仕掛ける側、のめり込む側、かつてのめり込んでいた側という三つの視点から、人の心を動かす「物語」の功罪が描かれていきます。
読み終えて残ったのは、感想というより、ひやりとした自覚でした。これ、教室の話でもあるな、と。今回はその話を書きます。
神がいない場所で、人は何に手を伸ばすか
タイトルにあるメガチャーチとは、数千人規模を集める巨大な教会のことです。物語はそれを補助線に、現代日本の熱狂を描いていきます。
宗教という共通の物語を持たない社会でも、人は何かにすがりたくなる。その受け皿として、推し活のような熱量の集まる場所が機能している——という構図です。
ここで大事なのは、作品が推し活を単純に否定していないことだと思います。誰かを応援することは人を救うし、生きる支えにもなる。ただ、その熱量は同時に、動員され、消費され、経済に変換されもする。救いと搾取が同じ回路の上にある。その両義性が容赦なく描かれます。
教室にも、推し活はある
教員として読むと、生徒たちの顔が浮かびます。
推しの話をするときだけ饒舌になる子。グッズを大切に持ち歩く子。同じ推しを持つ者どうしの、強い結びつき。それは間違いなく、その子の生活を支える柱になっています。
同時に、危うさも見えます。課金が止まらない。推しが批判されると自分が否定されたように感じる。「界隈」の空気に合わせるうちに、自分の意見が言えなくなる。この構造は、学級の中の同調圧力とよく似ています。
だからといって「推し活はほどほどに」と説教しても、まず届きません。大人が理解しないまま否定するのは、その子の支えを外から蹴るのと同じだからです。
いちばん刺さったのは、「仕掛ける側」の視点だった
この本を読んでいて、いちばん落ち着かなかったのは、実は仕掛ける側の描写でした。
人の心を動かすには、事実ではなく物語を渡すのが効く。その手つきを読みながら、思ってしまったのです。それ、自分もやっているのではないかと。
学級目標を掲げて、みんなで一つになろうと語る。行事の前に、これは一生の思い出になると鼓舞する。感動的な締めくくりを演出する。子どもを動かすために、私たちは日常的に物語を使っています。
そしてそれは、たいてい効きます。効くからこそ、こわい。物語で人を動かす技術に、教師はかなり習熟しているのです。
物語を使うなというより、自覚して使う
では物語をやめるべきかというと、そうは思いません。物語のない集団は、そもそも束ならないからです。
問うべきは、その物語が誰のためのものかだと思います。
その物語は、子どもを育てるためのものか。それとも、学級をまとめて自分が楽をするためのものか。行事の感動は、子どもが手に入れたものか、教師が回収したものか。同じ言葉でも、向きが違えば、まったく別のものになります。
以前、承認されない仕事の価値について書きました。称賛を目的にすると、称賛される指導を選ぶようになる。あれと同じ話です。物語も、自分のために使い始めた瞬間に、性質が変わります。
今を生きる子どもたちに、何を渡すか
物語が人を動かす社会で、子どもたちに必要なのは何でしょうか。
私は、物語から一歩下がって、自分の言葉で考え直す時間だと思っています。熱狂の中にいるときは、それが熱狂だと気づけません。冷えてから、自分は何を感じていたのかを言葉にする。その往復ができる人は、簡単には飲まれません。
手前味噌ですが、振り返りという活動を続けている理由の一つが、まさにこれです。誰かに与えられた物語を反芻するのではなく、自分の内側から言葉を出す。地味ですが、これは物語に対する耐性そのものだと思っています。
おわりに
『イン・ザ・メガチャーチ』は、推し活の本であると同時に、人を動かすことの責任についての本でもありました。教室で毎日、言葉で人を動かしている身として、読んでよかったと同時に、少し背筋が伸びる読書でした。
物語を使わないことはできない。でも、自分が物語を使っていると自覚することはできる。その自覚があるかどうかが、子どもを導くことと、子どもを操ることの境目なのだと思います。
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